はじめに
僕は特定の宗教を信仰しているわけではありません。 ただ、心の探究を深めるにあたり、 人類が長く大切にしてきた聖書という書物を、 一つの教養として真摯に学びたいと思っています。
旧約聖書と新約聖書という言葉を知っていても何がどう違うのかはっきり説明ができる人は少ないかなと思います。
なんとなく、旧約聖書がアダムとエバ(イヴ)のお話で新約聖書がイエス・キリストの話という感じかなと。
確かにその通りなのですが、全く別物というわけでもなければ、新約聖書は聖書でないという見方もあるということを知ることが大事だなと思うのです。
それが、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教という大きな違いであり、この社会情勢の根底にあるものだからです。
その違いから述べていこうと思います。
最初に結論を述べてから整理していきましょう。
このキリスト教、イスラム教、ユダヤ教は同じ聖書を経典としながらも違う解釈をもっているのです。それがキリスト教は旧約聖書と新約聖書を聖書としておりますが、イスラム教とユダヤ教は、旧約聖書のみを聖書としているのです。つまり、新約聖書は聖書ではないとしています。
これが同じ根でありながら違う枝分かれということになります。
大きく考えた場合、キリスト教の聖書とは「旧約聖書」と「新約聖書」のことである。ユダヤ教とイスラム教では、新約聖書を聖書とはみなさず、いわゆる「旧約聖書」のみを聖書として認めている。これが大まかな異同である。
引用:この一冊で「聖書」がわかる!

また、イスラエル人、ヘブライ人、ユダヤ人も別々の人種ではなく皆、同一民族であり過去は遊牧民であったイスラム人となるのです。
この辺のことは聞いたことがあっても全然知るタイミングもありませんでしたが、聖書を学ぶとこのようにさまざまなルールを知ることができて中東の歴史とその根深い思想を垣間見ることができました。
では、そもそも旧約、新約含めて聖書とは何かというと一言でいうと神と人間の契約を記したものとなります。
つまり古い契約が旧約聖書で新しい契約が新約聖書ということですね。
この契約がストーリーであり、詩歌など文学的な表現を踏まえて盛りだくさんにまとまったものが聖書となのです。なので旧約聖書では「創世記」「出エジプト記」などありますがだいぶと記載内容や表現が違っていたりするので、読みやすいものと難解なものが大きく分かれます。とても解説なしでは理解ができずフランシスコ会の訳註が書いてあるものや解説本を並行して読むことが必須になると思ってます。それが、難解なアニメやドラマを考察するような感じでもありとても面白いものです。

イスラム教とユダヤ教は新約聖書を聖書としないのか?
さて、話は少し戻してなぜ、イスラム教とユダヤ教は新約聖書を聖書としないのか?かという重要な点に移ります。それは、一点の相違となります。これは「イエス・キリストをどうみるか?」に集約されます。それを下記に整理します。

なので、新約聖書も聖書でしょ?という考えは立場が変われば大きな間違いとなるのです。
新約聖書を聖書とするのは、ローマ・カトリック、プロテスタントの諸教会、英国国教会(聖公会)などのキリスト教だけとなります。
これは、互いの文化を尊重するという意味で日本人としても知っておくことで根底の概念に誤解が生じなくなるのでとても大切なことだと思いました。
僕は、新約聖書から読み始めたことで理解が追いつかないことが多々ありました。それは、イエスがユダヤ教の偉い人から頻繁に意地悪されるわけですが、それが律法に背いている理由からとなります。この律法とはそもそも何?同じユダヤ教もイエスも同じ経典を見ているんじゃないの?なんで仲悪いの?と。
まず、律法とは旧約聖書のモーゼ五書と呼ばれる「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の五巻のことを意味します。それに準じてイエスを試そうとしていたんですね。でも、イエスは、その律法の言葉に縛られることなく、解釈を深め行動で示すのでした。
僕が好きで有名な新約聖書の文節を下記にまとめますね。
安息日に人を癒す

律法は守るための「目的」か、人を生かす「手段」か
該当箇所
- マルコ3:1–6
- マタイ12:9–14
- ルカ6:6–11
舞台
安息日の会堂。手の不自由な人がいます。
律法学者たちは「癒すかどうか」を監視しているのです。
彼らが問題にした「律法違反」とは何か
- 旧約律法(モーセ五書)に「安息日に病人を癒してはならない」とは書かれていませんでした。
- しかし後代の解釈で、
- 治療=労働
- 労働=安息日違反という解釈の積み重ねができあがっていた
イエスはこう問います:
「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。
命を救うことか、殺すことか。
安息日の本来の意味は、
- 創世記:神が休まれた日
- 出エジプト記:奴隷状態からの解放の記念
- 「休めない者を休ませる日」
その日に、
- 痛みで苦しむ人を放置する
- 正しさのために命を後回しにする
それこそが、安息日の精神に反しているという解釈です。
言葉と解釈
世の中、言葉で定義やルールや法律が決まります。
言葉である以上、さまざまな解釈が生まれるものです。まさに現代の法律も言葉が同じでもさまざまな解釈で広義に捉えて物事を収めようとします。それが良い悪いではなく本来の本質から外れてしまうことにあると思います。言葉は言葉でしかありません。そこにある真意が読み取れないと目的を見失います。現代社会でいうとマニュアル人間ということですね。マニュアルに書いてある言葉でしか動けない、知れないとなると体験も決まってきます。そこに言葉の行間を読み取れずただ書いてある言葉の通りに動いて報酬をもらうだけとなるのです。ある意味でそれが規律を守る上で重要となりますが、その先に深い理解と広がりがあるのでしょうか?イエスは、その点を問いただしたのだと思うのです。
宗教とは言葉にならないものを語る
聖書を読むと今の社会に通じることを読み取れます。書籍「神との対話」にてこう述べられてます。
宗教というのは、言葉にならないものを語ろうというあなたがたの試みだ。
引用:『神との対話』第13章 著者:ニール・ドナルド・ウォルシュ
まさしく。ゆえに言葉を通して受けてる人と受け取れない人がでてきます。ただ、僕たちは言葉でしか具体的なコミュニケーションができない以上まだしばらくはこのジレンマを抱えることになります。
新約聖書と旧約聖書の違い。そこにある背景。それが映し出す今。この聖書という書籍から様々な学びがあります。
まだまだ聖書を通して自分を見つめ知識を深め広げていこうと思います。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。



